殺意は、愛情に為り得るのでしょうか
≪insanity holic≫
月が、綺麗な夜だった。
満ちた月というのは、何故か心をざわめかせる。
血が逆流するような…血管を、神経を這って、脳までも支配されるような。
不快な感覚、その筈なのに、惹き付けられる。
まるで、共鳴するように。
それはきっと、狂気に似ている。
私の腕の中で眠る、貴方の寝顔を見るのが好きだった。
普段よりも、ずっと幼く見えて。
時々、微笑んだり、私の名前を呼んだり、ますます子供のようで。
穏やかな寝息を立てる貴方を見つめながら、抱いた感情は。
今、同じように隣で眠る貴方への想いと、同じだろうか。
解らない、この感情は、何だろう。
軽く溜息を吐いて、身体を起こして。
彼の向こう側、ベッドサイドに置いてある煙草に手を伸ばした。
火を灯したそこから、独特の芳香が広がる。
肺の奥まで深々と吸い込んで、煙を吐き出す。
味わい慣れた筈のそれがやけに苦く感じるのは、何の所為だろうか。
不意に逸らした視線の先に、暗闇に差す淡い光。
もう一口煙を飲んで、灰皿に押し付ける。
惹かれるように、静かに窓辺に寄った。
見上げた夜空に、満ちた月。
「………愛してる…」
行為の最中、何度も彼に囁いた言葉。
それが、『想い』では無く『言葉』に変わってしまったのは、いつからだったか。
以前は、心から愛しいと感じながら、それを伝える為に言葉を紡いでいたのに。
……彼を、愛していないのかもしれない。
けれど、彼を手放したいとは思わない。
それならば、この想いは何だろう。
愛情とは、どんな想いのことを云うのか。
それすらも、解らなくなってしまった。
穏やかな寝息を立てる貴方を見つめながら、抱いた感情が。
どんな『想い』だったのか、『愛情』と呼んでいいものかさえも。
ただ一人のことを、強く想い続けることなのだろうか。
独占欲と、支配欲に塗れる程に、強く。
それならば、憎悪も、殺意も、同じものだ。
ただ一人のことを、強く想い続けて。
死を独占することで、生をも支配する、なんて傲慢な考えか。
憎悪は殺意に変わる、それは当然のこと。
憎悪が行き着く先は、殺意しか無いから。
愛情は殺意に変わる、それも当然かもしれない。
何よりも強い想いは、殺意だろうから。
独占欲と支配欲に塗れて、愛しい人の全てが欲しくなる。
全てを得るには、殺してしまうのが、一番簡単な方法だから。
愛情も、憎悪も、独占欲も、支配欲も。
全てが、殺意に繋がるのなら。
殺意は、愛情に変わるのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
彼を殺したいなどと、望んではいないのに。
何を馬鹿なことを考えているのか。
確かに、彼を乱暴に抱くことはある。
傷付けるように、壊すように。
けれどそれは、『まだ』、独占欲と支配欲。
理由は……彼を、愛しているから。
不安になることなど何も無いのに、自分らしくもない考え。
これはきっと、美しい満月の所為。
悲しくなるほど綺麗な月夜に、惑わされただけ。
「……ん…」
ベッドから、微かに呻く彼の声。
振り返って見ると、彼は億劫そうに身体を起こして、ちらりと腕時計に目を遣った。
そういえば、彼が気を失うように眠りに就いてから、あまり時間は経っていない。
普段なら、まだ彼は目を覚まさない筈なのに。
「……起こしてしまいましたか?」
私が隣に居ないことに気付いた彼は、困惑しているのか、そのまま固まってしまった。
安心させるように、ほんの少し詫びも込めて、声を掛ける。
もしかしたら、私の所為で起こしてしまったのかもしれないから。
「ううん……大丈夫、だよ」
振り向いた彼は掠れた声で応えて、ベッドの淵に座る。
私を見つめる、暗闇に良く似合う濡れた紫水晶。
淡い月の光を受けて、神秘的な輝きを放つ。
魅せられる、惹き付けられる、この感覚は。
操られるように身体が動いて、ゆっくりと彼に歩み寄る。
俯いてしまった彼、美しい瞳が隠されて、ふと不安になる。
気付けば、彼を抱き締めていた。
衝動のように抱き締める、いつもこんな瞬間がある。
跪き、彼の首筋に顔を埋めて、骨が軋むほど強く。
目の前で揺れる艶やかな黒髪、触れた肌は温かくて、心地良くて。
抱き締めた貴方の身体は、確かにこの腕の中に在るのに。
いつか、消えてしまうかもしれない。
どんなに強く抱き締めても、何度愛を囁いても、不安は拭えない。
彼の指先に髪を撫でられる、感触を楽しむような触れ方が好き。
けれど、消えないこの不安は。
離れてしまうくらいなら、このまま。
この腕の中の貴方を、永遠に。
ああ、貴方は月に似ている。
私を――…狂気で、支配する
「ねぇ、邑輝……愛してるよ」
耳元で囁いた彼の声は、奇妙に甘くて。
『何か』を融かして、侵してゆく。
愛してる、愛してる、愛してる。
互いに繰り返し交わし合う、コレが。
『想い』なのか『言葉』なのか、もう解らない。
それでも、確かに此処に存在するモノを。
ヒトは、何と呼ぶのだろう。
「私も……愛しています、都筑さん…」
応える為か、伝える為か。
『愛』を囁いた自分の声は、酷く虚ろで。
ふと肌に触れた雫、彼の涙、その理由。
解らない、なんて、嘘。
愛していると『想い』を紡ぎながら、涙を流す理由も。
貴方の望みも、解っているから。
だから、何もかも、気付かない振りをする。
貴方の苦痛も、恐怖も、不安も、見ない振りをして。
貴方の苦痛を、恐怖を、不安を、消す為に。
一番簡単な方法を、実行出来ない私を。
臆病で卑怯で、それでも貴方を愛する私を。
月に堕ちた貴方に、焦がれる私を。
愛して、傷付けて、憎んで、壊して、殺して、抱き締めて。
貴方の月に沈めて、その涙で溺れさせて。
『貴方を、殺してしまえたら』
狂気は静かに蝕んでゆく