願わずには、いられない
≪愛は裏切りに似て 6≫
どんなに傷付けても、苦痛など無かった。
快楽に似た痺れが、全身を支配するだけ。
視界は美しい赫に塗り潰されて、立ち込めるのは甘い香り。
もしかしたら、夢の中なのだろうか。
そうだとしたら、幸せな悪夢だ。
こんなに心地良い世界なのに、隣に彼が居ない。
夢でさえ、願いは叶わない。
「………都筑さん…」
彼の名を呼ぶと、ふと、右手首に弱い痛みが走った。
視線を向けると、幾つかの深い傷痕。
彼と同じ、傷痕。
衝動のように、唇を寄せた。
いつか、彼の傷痕にも同じことをした気がする。
貴方の過去も、罪も、狂気も。
その全ての象徴である、貴方の生きた証。
だから、彼の存在そのもののような傷に、口付けた。
貴方の全てを、愛している。
そう、告げるように。
「愛してる……」
誰よりも、何よりも、愛しているから。
憎むほどに、狂おしいほどに、愛しているから。
殺したいくらい、愛しているから。
ねぇ、都筑さん
貴方を殺したら、ずっと傍に居てくれる?
残業を終わらせて、疲れ果てた身体で家に辿り着いた。
軽くシャワーを浴びて、やたらと薄い布団に倒れ込む。
邑輝と離れてから、まだ一週間しか経っていない。
それなのに、もう何年も離れているみたいだ。
一日がやけに長く感じられて、夜もろくに眠れない。
目を閉じると、浮かんでくる。
絶望に塗り潰されて、色を失った、瞳。
生前、自我を失ったときと、似ているだろうか。
でもきっと、自分より酷い。
俺が、邑輝にあんな顔をさせた。
亘理が言っていたことが、本当なら。
「……まだ、間に合うかな」
求められている自分が嬉しいから、存在を赦されるような気になれたから。
だから、傍に居たいんだって思っていたけど。
求められなくても、必要とされなくてもいい。
どう思われようと、どんな扱いをされようと。
そんなこと、もう、どうでもいいんだ。
ただ、俺自身が。
お前の傍に、居たいだけ。
気付いたら、家を飛び出していた。
地上に出るのが、随分久しぶりに感じる。
通い慣れた道を走り抜け、二人の時を重ねた場所へと急ぐ。
癖のように腕時計を見ると、かなり遅い時間を指している。
だけど、明日でいいなんて、もう思えなかった。
どんなに迷惑がられようが、答えなかろうが。
山程ある言いたいことを、全て言ってしまおう。
それでそのあとがどうなっても、構わない。
もう、後悔だけは、したくない。
「………ッ…」
勢いでドアの前までは来たものの、やはり緊張はする。
インターホンを鳴らそうとする指は、情けないほど震えていた。
もし、居なかったら、どうしようか。
結界が張ってあるから、霊体では入れない。
外で待っていても、来ないかもしれない。
本宅は別にあるんだし、そっちにいたら、どうしよう。
頭の中で色々考えるが、それを全て振り切って。
震えたままの指先でボタンを押すと、チャイムの音が響く。
だが暫く待ってみても、返事は無い。
「……居ない、のか…?」
衝動的に来てしまった所為で、一気に力が抜ける。
居ないことを確認する為に、無意識にドアノブに手を掛けて回した。
「…………え…」
ガチャリと音を立てて、ドアが開いた。
インターホンに応答は無いが、鍵も掛けていない。
居るのかもしれない。
心臓が、大きな音を立てる。
一度解けた緊張が、また襲ってきた。
「……邑輝…?」
この部屋の主である筈の名を呼びながら、足を踏み入れた。
やはり返事は無いが、気配は感じる気がする。
黒に覆い尽くされた部屋は、見慣れたはずのものと違う印象を受ける。
夜中灯りを消しただけで、これほどまでに暗かっただろうか。
カーテンも全て締め切っているのか、ほぼ完全な暗闇になっていた。
ふと、鼻を掠めた匂い。
「……、…っ」
忘れたくても忘れられない、罪の記憶を呼び起こされて。
瞬間、息が苦しくなって、心臓は早鐘のように鼓動を刻む。
力の入らない身体を無理矢理動かして、壁伝いに歩く。
何歩か歩いたところで壁を探ると、四角いものに指が触れた。
スイッチを押せば、灯りが点く。
戸惑いながら指先に力を込めると、突然に闇が消える。
暗闇に慣れた瞳に鋭い光が痛み、思わず目を閉じた。
閉じていた目を、ゆっくり開く。
「……ッ…、あ…っ」
部屋中が、赫に染まっていた。
夥しい量の血は、誰のものだろうか。
無関係の人を殺し、その血を浴びて微笑んでいた邑輝の姿が、脳裏に過った。
邑輝は、昔のように戻ってしまったのだろうか。
俺の、所為で。
「………都筑、さん…?」
聞き慣れたはずの声は、どこか違う。
鼓膜を震わせる、奇妙に甘い声。
その声の主は、血溜まりの中心に居た。
「……邑、輝」
なんとか絞り出した声は、酷く掠れていた。
それでも声は届いたのか、立ち上がって歩み寄ってくる。
「都筑さん……逢いたかった…」
呆然としてしまって、気付けば目の前に立っていた。
俺を見つめて、愛しそうに囁く。
けれど、その瞳も、声も。
慣れ親しんだものとは、違っていた。
「ねぇ、都筑さん……私に、逢いに来てくれたの…?」
白だったはずの指先は、赫に蝕まれていて。
ぬるりとした感触が、頬を撫でる。
噎せ返るような血の香りに、息が出来ない。
問い掛ける邑輝の声も、どこか遠く感じる。
「都筑さん……愛してる…」
「…っん…ッ」
吐息と共に甘く囁きながら、深く口付けられる。
いつもと違う温かい唇、濡れた感触。
触れた舌から、血の味が広がる。
血に濡れた頬を撫でて、恍惚の表情で見つめる。
狂気の方が、どれだけ良かっただろう。
狂気すら捨ててしまった、純粋な白。
「ああ……やはり貴方には、血の色がよく似合う…」
柔らかい指が、首筋に触れる。
脈を探るように、ゆっくりと這い回る。
もう一度、優しいキスをして。
指先に、力が込められた。