それでも、愚かな自分は
≪愛は裏切りに似て 5≫
たった一つの、願い。
ただ、ずっと傍に居て、と。
生活感のまるで無い、冷たい部屋。
それでも彼が居るだけで、温かかった。
けれど、部屋の隅に置いてあった、綺麗な花が。
彼が居なくなったことを悲しむように、枯れていた。
一度温かさに馴染むと、元の温度に戻っただけで、以前よりも冷たく感じてしまう。
この部屋は、こんなに広かっただろうか、冷たかっただろうか。
彼はもう、戻ってこない。
この部屋が色を持つことも、無い。
それなら、いっそ。
全てを、醜い色で塗り潰してしまおうか。
たった一つの願いも、叶わないなら。
―――…ねぇ、一貴
誰かが、呼んでいる。
ああ、違う、この声は。
背後から伸ばされた、白い手。
唇が耳元に寄せられて、普通より色素の薄い髪が頬を擽った。
視界の端に、酷薄な笑みが映る。
「………咲貴…」
存在すら忘れていた、義兄の名を呟いた。
それを悦ぶように目を細めて、強く抱き締めてくる。
ずっと聞こえていた声は、咲貴の声。
あの白い闇の中から、ずっと呼んでいた。
愛しい彼が、傍に居てくれるようになるまで。
咲貴に囚われていた、狂気の中から。
―――…やっと、戻ってきたね
この間も、同じことを言っていた。
あれは、得体の知れない恐怖と、不安に呑み込まれそうになって。
自分自身を傷付けて、懐かしい狂気に触れたとき。
―――…一貴が居る場所は、ここだよ
深層世界。
無限に続くような、狭い鳥籠のような。
あの日のまま止まった、白で埋め尽くされた空間。
咲貴は、罪の象徴。
そして、罰の存在。
意識は、ずっとそこに在った。
狂気だけが、身体を動かしていた。
―――…彼は、君の居場所じゃない
ずっと、叫び続けていた。
誰か助けて、ここから出して。
出られないのなら……いっそ、殺して。
だけど、気付かれないまま、永遠に続く。
解っていた、それが罰なのだと。
終わりさえも赦されず、絶望へと堕ちていく。
でも、彼は気付いてくれた。
苦痛と恐怖を与え続ける、この場所から。
助けてくれて、あの狂気から救い出して……温かい場所を、与えてくれた。
彼が愛してくれたから、存在する理由が出来た。
彼を愛せたから、存在する証明になった。
彼は全てに、救いをくれた。
―――…だって、彼は君を捨てただろう?
だけど、彼に何も返せていない。
彼が何を望んでいるか、解らない。
解らないから、与えられない。
……例え、解っても。
自分では、与えられないかもしれない。
解らない。
だって、愛することも、愛されることも、初めてだった。
―――…彼は、本当に君を愛していた?
最初から、愛されてなどいなかった?
そんなことない、彼は。
私を救ってくれて、沢山のものを与えてくれて。
―――…憐れみだよ
愛されていた、なんて想いは。
全て、幻想だった?
―――…君が、可哀相だったから
―――…君を憐れんで、満足していただけ
私は、貴方が居ないと、息も出来ない。
それほど、愛しているのに。
貴方しか、愛せないのに。
―――…彼がずっと傍に居てくれる方法、教えてあげようか
どうしたら、貴方は傍に居てくれる?
貴方が、私から離れていかないように。
離れることなど、出来ないように。
―――………彼を、―――
「……―――ッ!!」
甘い毒を孕んだ声で、囁かれるのと同時に。
また、肌を切り裂いていた。
生気を感じさせない、人形よりも白い肌。
視界の奥に、白の世界を蘇らせる。
思い出したくないのに。
この白を全て赫で染めたら、消えるだろうか。
「………都筑、さん……」
存在を、赦されていると思ってしまった。
赦されるはず、無いのに。
あの瞬間、私を拒絶した彼の瞳が。
焼き付いて、離れない。
「愛してるのに……」
どうして、そんな瞳で見るの。
どうして、離れていくの。
どうして、どうして、どうして……―――
ずっと、傍に居てくれるって、約束したのに。
「こんなに、愛してるのに……」
一言、呟くたびに。
一つずつ、傷が増えていく。
白が、赫に染まっていく。
「どうしたら、ずっと……傍に、居てくれるの…?」
視界まで、赫に蝕まれる。
想い出す彼の姿に、赫が重なる。
彼が、血塗れになる。
「どこにも行かないで…独りに、しないで……」
頬を、温かいものが伝う。
涙なのか、血なのか、解らない。
何かが、壊れる音がした。
「……………ああ、そうか」
いつか見た、傷付いて、赫に染まった彼。
―――…彼がずっと傍に居てくれる方法、教えてあげようか
ああ、血に濡れた貴方は
―――………彼を、―――
「貴方を、殺せば」
何よりも、美しい
「殺して、人形にすれば……ずっと、傍に居てくれますよね」
―――………彼を、殺してしまえばいいんだよ
恍惚に酔いしれた声が、甘い予感に歪んだ笑みが。
何かと、重なった気がした。