何一つ、叶わないと
≪愛は裏切りに似て 4≫
「おはよぉさんっ」
「………」
金色のウェーブがかった髪が、視界の端に揺れた。
確かに見えていたのに、一瞬、何もかもが解らなくなった。
「…都筑? どないした?」
「え………あ…亘理…?」
「………都筑、ラボ行くでぇ」
「は…? 亘理? 何、急に…」
話の内容に追い付くのに時間が掛かって、反論も聞かず、腕を掴まれて歩かされた。
半ば強制的に押し込まれた場所は、研究所 兼 亘理の寝床。
「亘理……巽に怒られるって」
「そんなんどうでもええ。 ……都筑、何があったんや?」
同僚であり一番の親友である亘理は、いいかげんなようでいて、その実。
誰よりも人を見て、ほんの少しの変化も敏感に感じ取る。
余程、思い詰めた顔でもしていたのだろうか。
捨てたのは、自分だというのに。
「………終わった」
「終わったて……邑輝と、か?」
「……もう、俺のこと……いらないみたいだから」
昨日と同じ科白を繰り返しただけなのに、喉の辺りに痛みを感じた。
認めたくない事実を、突きつけられたような、痛み。
「邑輝が、そう言ったんか」
嫌に深刻な顔で、亘理が問い詰めてくる。
俺が捨てられたように、見えているのだろうか。
捨てたのは、俺なのに。
ずっと傍に居る、と。
幸せな時間の中で交わした約束を、破ったのは俺。
でも、俺の所為じゃない。
俺が必要だと、求めてくれなかった。
邑輝が、悪いんだ。
心の中の醜い自分が。
自分の本性が、そう囁く。
俺は悪くない、悪いのはアイツだ。
気持ち悪い、自分に、吐き気がする。
「都筑のこと、いらないって…そう、言ったんか」
「……言ってないよ、邑輝は」
「そんなら、どうしてそうなったん?」
いらないって思われてるなんて、そんなことない。
たまに疑うこともあったけど、そうじゃないって信じてた……信じたかった。
邑輝は、俺が居ないとダメで。
俺は、そんな風に求めてくれる邑輝が居ないとダメで。
依存みたいな関係でも、それでも良かった。
もしそうなら、離れることなんて無いから。
だから、依存して欲しかった。
何かある、そう思って聞いても、答えてくれないのは解ってた。
何かあっても、邑輝は絶対に言わない。
それなら、せめて。
いつものように、言って欲しかった。
ずっと、傍に居て、と。
「………聞いたのに、答えてくれなかった」
恋人という関係になってから、気付いた。
邑輝は、心配をかけないようにしてるのか、あまり自分のことを話さなかった。
体調のことも、仕事のことも、何も。
でも、何かあったの、なんて。
聞いてはいけない気がして、いつも、黙ってた。
隣に座った俺の肩に、軽く頭を乗せて。
慰めの感情も、言葉も、いらないから。
少しだけ、このままでいて欲しい、そう言われているようで。
聞かれたくないなら、聞かないよ。
お前が望むなら、いくらでも、ここに居るから。
そう答える代わりに、すぐ近くの柔らかな銀糸に、頬を寄せた。
「言葉も、態度も……答えて、くれなかった」
妙な感覚は、それからしばらく経ってからだったと思う。
一ヶ月程前だった。
元々性欲というか、求愛意識のようなものが強い邑輝だが。
いきなり押し倒されたり、身構える間もなく行為に及ばれるのはいつものこと。
けれど、その日の邑輝は様子が違った。
興奮しているというより、寧ろ瞳は冷たい色を湛えていて。
痛めつけられている訳じゃないのに、暴力のように感じられて。
それも一瞬のことで、すぐにいつものような恍惚とした目で俺を見る。
でもいつもより激しく、最後は気を失うように眠りについたのを覚えている。
「何も言わないの、解ってた。 聞いても聞かなくても、言わない。
アイツは、そういうヤツだから」
はっきりおかしいと思ったのは、それからだった。
気絶するまで犯されて、時折また、氷のような目をして。
そうかと思えば、態度だけいつも通りのまま、一切触れなくなって。
その、繰り返しだった。
そのときから、ずっとあった、既視感。
何も映さない、機械のような瞳。
奥には何も見えなくて、そのことにまた、違和感を覚えて。
「でも、何かあったら……口では言わなくても、
何かあるなら、俺の傍に来るって…そう、思ってた」
聞いても何も言わない、だけど寄り添ってくれる。
だから、聞かなかった。
何かあるなら言ってくるなんて、思ってた訳じゃない。
でも、ずっと様子がおかしかったのに。
甘えるような仕種も、しなくなって。
相変わらず、何も言わなくて。
それでも聞かなかったのは……怖かったから。
聞いても答えてくれない、理由。
心配かけたくないから、なんて理由は、俺が勝手に推測したもので。
邑輝が、そう言ったんじゃない。
怖かったんだ。
聞いても答えてくれないのは。
俺のこと、拒絶してるんじゃないかって。
「……俺、聞こうと思ったんだ。 何かあったのって言っても答えないし、
じゃあ、どうして答えないのかって」
いらないって言われるのが怖くて、でも知りたくて。
………違う。
邑輝には俺が必要だって、確かめたくて、信じさせて欲しかった。
ずっと、不安だったから。
「でも……頭に血、昇ってたのかな。 上手く、聞けなくて。
……なんか、責めるような言い方になっちゃって」
俺が居ないとダメって、そんなこと言われなくても良かった。
ただ、いつものように抱き締めて。
祈るように、傍に居て、と。
「………お前に俺は必要ないだろって言ったんだ。
でも……それでも邑輝は、何も答えなかった」
何も言わない、言おうともしていない。
ただ黙って、俺を見ているだけ。
見ていなかったのかもしれない、俺が居る辺りに視線を向けただけのような。
そんな虚ろな視線が、やけに頭に残っている。
「……どの邑輝が、本当だったのかな…。
それとも、全部……嘘だったのかな……」
「都筑…?」
「幸せそうに笑う顔も、辛そうにしてる顔も、泣きそうな顔も……」
いつも、笑ってた。
柔らかい、優しい微笑み。
他の誰にも見せない、俺だけに向けてくれる、笑顔。
仕事で何かあったみたいで、眉を顰めて、俯いてるときもあった。
軽いケンカみたいなものもして、いつも言い過ぎてしまう俺の所為で。
拗ねたような、叱られた犬のように情けない顔してるときもあった。
「なぁ、亘理……邑輝って、どんなヤツだったっけ……。
………敵だったときのアイツが、本当のアイツなのかな…」
敵だったとき。
いつも、俺を誘き寄せる為だけに、無関係な人々の命を奪って。
そうして血に塗れて、口許を笑みに歪ませて。
けれどその姿は、この世のものとは思えないほど、綺麗だったのを覚えている。
追い詰められて、あの機械のような銀色の瞳を見つめるたびに。
狂気で隠した、寂しさ、哀しさ。
奥底で、救いを求める姿が、見える気がして。
だから、拒絶できなかった。
赦せないのに、憎んでいる筈なのに。
こんなことがしたい訳じゃない、そう涙を流す姿を、感じてしまって。
気付けば、抱いていた感情は、愛しさだった。
「……ダンナが都筑と付き合うようになってから…。
オレ、一回会ったやろ、確か」
「え……あ、一緒に飲もうって…」
亘理には、よく邑輝のことで相談して。
邑輝には、よく亘理のことを話していた。
そうしたら、お互い会ってみたいって言い出して。
最初はあんまり乗り気じゃなかったけど、一度くらいは、って思って。
でも会ってみたら、全然心配することなんて無かった。
意外にも気が合うのか、三人で朝まで飲んで話して。
だけど、また飲み会やろうって言いながら、中々機会が無くて。
二人とも、残念がっていたのを覚えてる。
「そう、それや。 そんときな、びっくりしたんや」
「びっくりって……何が?」
「ダンナが、あまりにも変わっとったから。
……敵やったときと、全然違うたから」
ああ、やっと理由が解った。
あの、既視感。
以前の邑輝を思い出せないほど、変わっていたから。
結びつかないだけだったんだ。
敵として対峙していたときと、似ていた。
凍りつくような、冷たい瞳。
じゃあ、違和感は?
「都筑も、変わったんやで。 普段はあんまり解らへんけど」
「……俺、も?」
「ああ。 ダンナのこと話しとるときも、ちょっとあったんやけどな。
でも、二人並んどるとこ見とると……ああ、二人とも幸せなんやなぁ、て」
「………幸せ…」
「邑輝な、信じられへんくらい、優しい目ぇしとった。
ほんまに都筑のこと好きなんや、て」
でも。
その優しい色をした目が、時々違ったんだ。
以前のような、冷たく暗い色にも似てるけど、そうじゃなくて。
何も映っていないような、何も感じ取れない。
何の色も無い、覗き込むことも躊躇わせる瞳。
底無しの暗い沼のような、絶望にも似た…―――
「………なぁ、都筑…もういっぺん、行ってみぃ?」
「でも……」
「ほな、宣言したる。
邑輝がお前んこと嫌いになるんは、絶っっっ対ありえへん!」
絶望と、諦め。
二つの色を混ぜて、限界まで濃くしたら……あんな色になるだろうか。
あの、違和感の正体、は…
「絶対……そう、かな…」
「おお、絶対や。
んで、お前が邑輝を嫌いになることも、絶対ないなぁ」
俺、まだ怖いんだ。
どんなに信じようと思っても、不安ばかりが現れて。
でも、もう一度、信じたら。
俺が、諦めなかったら。
お前の、傍に居れば。
お前はまだ、笑ってくれる?