解っていた、筈なのに










≪愛は裏切りに似て 3≫










頭が、鈍器で強く殴られたように痛む。

目の前が霞んで、眩暈がする。







『お前に、俺は……必要ないだろ』







違う、と言いたいのに。

今すぐにでも、抱き締めたいのに。




声が出ない、身体が動かない。



まるで、人形にでもなったかのようだ。







『………だったら、俺がお前の傍に居る意味も無いな』







どうして、そんなことを言うの。



貴方が居てくれないと、私は―――…







『これで……終わりだ』







吐き捨てるように言った、彼。



隣に、すぐ傍に居た彼が、歩き出す。




まだ間に合う、まだ手が届く。

場面はスローモーションのように進んで、それなのに。



行かないで、傍に居て。

何もしなくていいから、何でもするから。

捨てないで、一人にしないで。








扉の閉まる音が、静かな部屋に響いた。







「………あ」






また、声が、聞こえる。

近付いてくる、声が、白い闇が、狂気が。



取り込まれて、そうしたら。




きっともう、……戻れない。





戻れない?

もう、戻る場所など、無いのに?








「……嫌、だ…」







反射的に、呟いた。

それに、答えるように。





―――…どうして…?






楽しげな響きを持った声が、聞こえた。



誰の声か解らない、でも。

聞いたことがある。




この声を、知っている?






―――…君が居る場所は、そこじゃない





声と共に、何かの映像が脳裏を掠めた。



偽物の笑顔と、酷薄な笑み。





思い出すな、消えてくれ。

そう、願うのに。






―――…戻っておいで、一貴…








「……やめろ…っ」






絞り出すように叫んだ瞬間、声は消えた。

奇妙に優しく囁かれた言葉も、微かに過った映像も。



何を言われたのか、何が見えたのか、思い出せないほどに。





不意に、痛みが走った。







「……何……あ」






今度は、右の手首。

彼の傷痕と、同じ場所。

無意識に、選んだのかもしれない。




深い傷が、刻まれていた。



微弱な電流のように、心地良い痛み。

流れる赫の鮮やかな色、そこから立ち昇る錆の匂い。



いつの間にか掌に握られていた、小さな刃物。



そこに触れた舌から伝わる、独特な、けれど甘く魅惑的な味に。





酷く、安堵を覚えた。











久しぶりに、このボロアパートに帰って来た気がする。



殆ど一緒に住んでいるも同然だったから、最後にこの部屋を見たのは随分前だったと思う。




気の遠くなるほど長く住んで、馴染んでいた部屋だったのに。

今まで生きてきた中ではごく僅かな期間離れただけで、他人の部屋のように見えた。







「………バカみたいだな、俺」






邑輝に必要とされることが、いつの間にか生きる糧になっていた。

求められることが、嬉しくて。



苦痛ばかりの死神としての生を、楽しくしてくれたのは、大切な仲間たち。

喜びを、幸せをくれたのは、邑輝だった。

求められて、与えて、相手が満たされたとき。

そうして幸せを感じることもあるのだと、初めて知った。




ずっと、傍に居て。



優しく抱き締められながら、何度も囁かれた言葉。

邑輝がそう望むなら、永遠に、例え永遠が終わっても。



お前が求める限り、傍に居るから。





そう、思っていたのに。




結局、拒絶する。

辛いなら、苦しいなら、言って欲しいのに。



代わってやることが出来なくても、分け合いたかったのに。



一緒に背負うことも、させてくれない。




お前が求めてくれないなら、俺が隣に居る意味なんて無いのに。






邑輝に言った言葉は、嘘じゃない。

でも、あんな風に言うつもりは無かった。



邑輝がどこか遠くに行ってしまうような、消えてしまうような。



心の隅に、そんな不安があって。

怖くて、でも信じていたくて。

それでも揺らぐ心を、繋ぎ止めて欲しかった。




大丈夫って言うなら、どうしてそんな瞳で……







「……あれ…?」






ずっと、日常に緩やかに溶け込んでいた、違和感、既視感。



つい数十分前の、けれど曖昧な記憶の中。

黙り込み無表情だった邑輝に、それを感じた。




前にも、見たことがあるような。

でも、思い出せない。

何も映さない瞳、感情も、生気も、何も感じさせない。



人形のように、無機質な。



また蘇った、何も答えない邑輝に。





血の色が、重なって。







「………ッ…」






知らず知らずの内に、涙が零れていた。

あのとき頭を支配したのは様々な醜い感情で、泣きたかったのに、涙なんて出なかった。



それなのに、どうして今更。




今更、どうだと言うのか。



泣きながら訴えていれば、邑輝は答えてくれた?






「…は…っ……それこそ、…今更だ」






自嘲の笑みが零れる。



もう邑輝に、俺は必要ない。

もしかしたら、最初から求めてなんかいなかったのかもしれない。




飽きたら捨てる、退屈しのぎの人形。





アイツは、そういう人間だった。







「……………」






また感じた、小さな棘のような既視感に。





気付かない、振りをした。















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