微かな祈りも、届かない
≪愛は裏切りに似て 2≫
もう、二週間程になるだろうか。
邑輝は、ずっと医師の仕事を休んでいた。
それは、恋人であるはずの都筑にも言わずに。
休暇の理由は、表向きは体調不良。
それも嘘では無いが、一番の理由は精神的なもの。
声が、聞こえる。
声とも言えないかもしれない、微かな音が聞こえるだけ。
でも、それが声であると、確信していた。
根拠も無い、だが頭の奥でそうだと言う自分が居た。
その声が聞こえるたびに、どうしようもなく苛立つ。
そうじゃない、昨日と同じ。
苛立ちでも怒りでも無い、立ち込めるものの正体は、不安。
それが侵蝕を始めたとき、身体を支配するのは苦痛。
心臓の辺りが締め付けられて、呼吸が苦しくなって、頭が酷く痛む。
心など、疾うに失くしたものと思っていたのに。
彼を、愛してしまったから。
「………?…」
美しい紫電の瞳が記憶を掠めた、その瞬間。
声が、近付いた気がした。
聞いてはいけない、気付いてはいけない。
その、声に。
でも、耳を塞げない。
彼の名前を呼びたいのに、声にならない。
ああ、これは
あの夢と同じ……
「……あ…ッ…」
例え様の無い、恐怖、絶望。
その果てに見える狂気、もう二度と感じたくない。
けれど、それは確かにすぐ傍に近付いていて。
違う、ずっと隣に在った。
見えないようにしていただけ、気付かない振りをしていただけ。
だけど、気付いてしまった。
この狂気に、白い闇にまた取り込まれたら。
もう、戻れない。
テーブルに置いたままの、果物ナイフ。
動けなかった手が、それに向かい伸ばされる。
右手に持ったそれを、衝動に突き動かされるまま振り下ろした。
「……ッ」
懐かしい。
鼓膜を震わせる鈍い音、掌に伝わる肉の感触、微かに漂う甘い血の香り。
小さな刃は、左腕に深く食い込んでいた。
痛みも感じない、声は遠ざかった、狂気の気配は消えた。
ナイフを引き抜くと、そこからまた紅い液体が溢れる。
そっと舐め取った舌に広がる、甘美な味。
自然と、口許が笑みの形に歪む。
―――…やっと、戻ってきたね…―――
「……ッ…?」
また、声がした?
……気の所為だったのかもしれない。
音とも声とも取れない曖昧な気配は、一瞬で遠ざかった。
黒い大きな塊が胃の奥にあるような感覚は、大分薄らいでいる。
そのことに僅かな安堵を覚えつつ、溜息交じりにふと視線を下ろす。
思わず、目を見開いた。
同時に心を埋め尽くすのは、静かな絶望。
「………都筑、さん…」
白い服に滲む、赫。
引き裂けた布地から、破れた皮膚と、その下の肉が覗いている。
未だ、血を噴き出しながら。
「………ッ……!」
声にならない叫びを吐き、床にナイフを叩きつける。
カラン、と音を立てて、紅く輝く刃が転がった。
「ただいまー…」
挨拶の言葉を口にしながら部屋に上がっても、返事が無い。
部屋の鍵は閉まっていた、もしかしたら不在だろうか。
だが灯りはついている。
邑輝がこのまま部屋を出るのも、あまり考えられない。
鍵を閉めているのはいつものことだ、でも。
『おかえりなさい』と微笑む邑輝が居ないことに、妙な胸騒ぎがした。
「………邑輝? いない、のか…?」
恐る恐る声を発しても、また答えは無い。
本当に、居ないのだろうか。
「………あ」
何故か緊張感が走り、ゆっくりと歩く。
ソファーを覗き込むと、探していた人物が居た。
また、寝ていたのか。
途端に解けた緊張の糸、静かに息を吐き出すと、都筑はその場に座り込んだ。
「……疲れてる、のかな…」
以前にも時々、ソファーで転寝しているときもあった。
けれどそれは転寝とも言えない程に浅い眠りで、近付く前に目覚めてしまう。
本当は寝ていなかったのかもしれないが、都筑が近付いたあとには。
必ずぼんやりとして、目を数回瞬かせて。
どうしたの、と訊ねると、寝てた、と軽く笑っていた。
そのときはまだ、違和感など無かった。
……違和感、では無いかもしれない。
どちらかと言えば、既視感。
時々、なんでもないような、いつもの風景。
ふと邑輝と目が合ったときに感じる、妙な感覚。
白銀の瞳、その奥に、何か。
「………ん…」
小さな呻き声が聞こえて、弾かれたように顔を上げる。
考え事に没頭しすぎていたらしい。
長い睫毛が震えて、数回瞬きをして。
完全に現れる、冴え凍る月を映した湖面のような瞳。
あまりの艶やかさに、妖しいまでの美しさに、ぞくりと鳥肌が立った。
「都筑、さん……?」
「………ああ、ただいま」
「おかえりなさい」
いつもの、微笑み。
俺にしか見せない、柔らかな。
また、だ。
不安に似た、既視感。
「もしかして、寝てた…?」
「……ああ……お前さ、疲れてんのか?」
「………別に。 大丈夫だから」
いつも、そうだ。
時折、隠すような、逃げるような。
静かに拒絶するような。
言葉も、態度も。
俺に、踏み込まれたくないことなのか。
もしそうなら、強制はしたくない。
そんな、綺麗事の裏で。
醜い感情が、頭を擡げる。
「……俺に、知られたくないことなのか」
「………都筑さん?」
発した声は、自分でも驚くほどに低く、冷たかった。
「どうしたんですか? 突然……」
「俺に言えないことなのかよ」
邑輝の言葉を遮って、睨み付けながら言った。
抑え切れない感情の昂りが、押し殺していた筈の声を荒立てる。
他に音の無い空間に、嫌に響いた。
「……お前って、いつもそうだよな。 俺には何も言わない」
「都筑さん…? 何を…」
「何かあるなら言えばいいだろ…俺が嫌なら、そう言えよ。
いつも、そうやって…ッ」
無意識に、拳を握っていた。
爪が食い込むほどに、強く。
自分でも、何を言っているのか解らなくなる。
目の前の邑輝を見ている筈なのに、理由の解らない苛立ちの所為か。
赤、黒、黄色、白…様々な色が、視界に混ざる。
「……隠すなら、逃げるなら……拒絶、するなら…ッ…」
泣いている訳でもないのに、視界が霞む。
邑輝の顔も、よく見えない。
自分の声も、よく聞こえない。
どこか、全てが遠くに、他人事のような。
でも、何処かで安心していた。
邑輝の瞳に映る自分を、見たくなかったから。
きっと今、醜い顔をしている。
「お前に、俺は……必要ないだろ」
息を詰めたような、音。
けれど、声は聞こえない。
邑輝は、何も、答えない。
古い映像が再生されるように不鮮明な視界は、時折鮮明になる。
邑輝は俯いて、黙っていた。
無表情で、何の感情も映さない瞳で。
どうして、何も言わないんだ。
本当に、………必要、ないのか。
「………だったら、俺がお前の傍に居る意味も無いな。
これで……終わりだ」
視線を下に向けて、呟く。
それでも、返ってくるものは何も無い。
胸に立ち込める感情は、重くて、暗くて、醜くて…哀しい。
もう顔も見ずに立ち上がり、扉に向かって歩き出す。
何も考えることが出来なくて、夢でも見ているような。
何かが、崩れ落ちる音が。
脳の奥で、響いた。