眩暈がする、吐き気がする、息が出来ない。
悪い夢だと思いたくても、逃げ出したくても。
すべては逃れようの無い現実で、取り戻す事も出来なくて。
何もかもがリアルなのに、世界はどんどん色を失っていった。
≪黒夢≫
血の温もり、柔らかい肉の感触、すぐ近くに在る心臓の鼓動。
殺意など微塵も無かった筈の爪先が、ゆっくりと異空間に引き摺り込まれる様に心臓に吸い込まれた。
殺意が無いのだから、避けるのも、弾くのも、容易だった筈なのに。
何も、出来なかった?
何も、しなかった?
でも、これだけは解ってしまった。
お前はきっと、この瞬間を待ち望んでいたのだという事。
「…嘘、だろ……」
思考も、視界も、真っ黒に塗り潰される。
何が起こったのか、理解出来ない。
空中で貫かれた身体は重力に従い、腕から抜け落ち宙を舞う。
スローモーションの様にゆっくりと、その場面は進んでいく。
このままでは地面に叩き付けられる、何故か呑気にそんな事を考え、慌てた身体を支えた。
そしてなるべく邑輝の身体に負荷がかからない様に、そっと地に降りた。
「ばかやろ…っ…なんで避けなかった! お前なら、あれぐらい…ッ……」
「貴方、ねぇ……避けさせるつもりで攻撃する人なんて、普通いませんよ……?
どこまでも、甘い人、だな……ふふ」
「ばか、喋んなよ…ッ…!!」
柔らかい唇から、空洞になった胸から、赤黒い液体が流れる。
それに比例する様にぼろぼろと涙が流れて、止まらない。
お前が死んで、どうして俺は泣いているんだろう。
塗り潰された思考がぐるぐる回って、もう訳が解らない。
でも、死んで欲しくない、と。
そんな想いだけが、はっきりと浮かんだ。
「やだ…ッ……嫌だよ、邑輝…っ…」
「……都筑、さん………」
なんでこんなに、心臓が痛むんだろう。
貫かれたのは、俺の胸じゃないのに。
「…私、が……」
「……邑輝…?」
「貴方の、悲しみも…苦痛も、全て……私が、背負う……から…」
邑輝は、急に何を言い出すんだろう。
言葉を紡ぐ度に咳き込んで、その度に鮮血が流れる。
「…泣かない、で………、ただ…っ…」
どうして、お前がそんなこと言うんだ。
お前だって、お前の方が、俺のこと憎んでいる筈なのに。
「ただ…ひとつだけ……赦して、下さい……」
懇願する邑輝の瞳を見ているだけで、胸が締め付けられる。
「罪として…傷として、しか……貴方の心に、居場所を作れない私を…」
「何、言って……なんで、そんな事…ッ…」
罪としてじゃなくても、傷としてじゃなくても。
俺の心の中に、確かにお前の居場所は在る。
だから、おねがい。
「……ふふ…っ……私ねぇ…最初は、否定したかった……こんな、人間みたいな、自分を」
お前は、人間だよ。
綺麗で、純粋で、とても弱い、ただの人間なんだ。
「今は、違う……」
人間である事を否定したがっていたお前、死神になってまで人間に憧れた俺。
正反対、でも、表裏一体だった、ふたり。
どうして、こんな風にしかなれなかったんだろう。
「都筑さん………ありがとう…」
「え………?」
ありがとう、なんて、言わないで。
俺はまだ、お前に何もしてやれてないんだ。
「私は……貴方を、愛せたから……私は、人間として……死ねる」
「…ッ……死ぬなんて、言うなよ…っ……頼むから…ッ…」
俺を愛せたから? 俺は何もしてないのに?
まだ、何も、何一つお前にしてやれていないのに。
「都筑さん………さよ、なら…」
「邑輝…ッ……やだ…っ…!!」
冷たい掌が弱々しく、濡れた頬を撫でる。
何度も往復する掌に、漸く涙を拭ってくれているのだと解った。
本当は、この涙が止まるまでずっと拭っていて欲しいのに。
俺が笑える様になるまで、ずっと傍に居て欲しいのに。
もう、無理なんだ。
力が抜けて、地に吸い込まれそうになった腕を、慌てて掴む。
それを確認する前に、邑輝の瞳は伏せられた。
衝動的に、徐々に冷たくなっていく身体を抱き締めた。
労わる気持ちとか、考えている余裕が無くて、ただ祈りを込めて痛いぐらいに抱き締めた。
殺して、その冷たくなった身体を抱き締めるのは、なんて辛くて、哀しい。
泣きながら閉じていた目を、ゆっくりと開く。
綺麗な顔に残っていたのは、涙の痕と、柔らかく笑みの形を作った唇だった。
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